【ゲームの企画書】激動のゲーム業界を“変わらないこと”で生き抜いてきた日本ファルコムのスゴさとは?【業界初、加藤会長×近藤社長対談】

【ゲームの企画書】激動のゲーム業界を“変わらないこと”で生き抜いてきた日本ファルコムのスゴさとは?【業界初、加藤会長×近藤社長対談】

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 『ドラゴンスレイヤー』『ザナドゥ』『イース』──かつて1980年代、群を抜いたクオリティの作品を連発、近年では『軌跡』シリーズ『東亰ザナドゥ』『イースⅧ』などシリーズの派生作品やナンバリングタイトルをリリースし、世代を超えたファンを獲得し続けているゲームメーカー・日本ファルコム。

 そんな同社は、スクウェアエニックス(現スクウェア・エニックス)、光栄(現コーエーテクモゲームス)といったパソコンゲームの黎明期に創業した老舗メーカーのひとつだ。

 ご存知の通り、ゲームは今でこそ日本を代表する重要な産業のひとつだが、その歴史はまさに激動だった。そんな中にあって、日本ファルコムはある時から会社の規模をほとんど変えず、高品質のゲームをリリースし続けてきた稀有な存在だ。

 また、数少ないスタッフ数であるにもかかわらず、大ヒットしたアニメ映画『君の名は。』監督・新海誠氏や、多くのゲームミュージックを手がける作曲家・古代祐三氏『ゼノブレイド』シリーズを制作したモノリスソフト取締役・高橋哲哉氏といった、現在活躍しているクリエイターを多数輩出している会社だということも “不思議”と言えるだろう。

 なぜ、わずか50名ほどの少人数体制で高いクオリティのゲーム開発ができるのか?なぜ、こんなにも才能溢れるクリエイターが同社に集まるのか? そしてなぜ、35年以上続いている日本ファルコムが、今日までブランドを維持することができているのか?

 これらの疑問を明かすべく、創業者であり現会長の加藤正幸氏、2007年に32歳の若さで社長に就任した近藤季洋氏の両名にインタビューを敢行した。
 なお、聞き手にはメディアミックス雑誌『コンプティーク』初代編集長・佐藤辰男氏(元カドカワ取締役相談役。2018年6月よりコーエーテクモホールディングス社外取締役)を招聘。『コンプティーク』の創刊当初から加藤会長と親交があった佐藤氏に、当時の思い出も交えて大いに語り尽くしてもらい、濃厚な内容となった。

聞き手/佐藤辰男、TAITAI
文/RonなかJ
写真/増田雄介


左から、佐藤辰男氏近藤季洋氏加藤正幸氏

会社の規模を拡大せずにアイデアで勝負する“逆張り”の発想

加藤正幸氏(以降、加藤氏):
 僕と近藤が一緒のインタビュー取材は、基本的にお断りしてきたんですよ。でも、佐藤さんが聞き手としていらっしゃるというものだから……。

カドカワ取締役相談役・佐藤辰男氏(以下、佐藤氏):
 じゃあ、今回が初めてなんですね。

加藤氏:
 僕は出たがりだからいいけれど、近藤はひとりのときじゃないと何も言わないから。「遠慮深い」というかね。

近藤季洋氏(以下、近藤氏):
 (笑)。

加藤氏:
 でもさ、読者さんは僕の話なんか聞きたくないでしょ?(笑)

佐藤氏:
 そんなことはないですよ(笑)。
 今回は、「日本ファルコムはどういう会社なのか」を改めてお聞きしたいと思っているんです。

 パソコンの黎明期に創業した会社なのに、同じパソコンゲームメーカーとしてスタートした光栄さん(コーエー・テクモゲームス)やスクウェアさん(現:スクウェア・エニックス)などと比べても、会社のあり方が違うように見えます。

加藤氏:
 そういえば、先日もある方から「不思議な会社ですね」と言われたよ(笑)。

──我々メディアの目から見ていても、日本ファルコムって、やっぱり「不思議な会社」なんですよね。一体全体どうやってゲームを作っているのかが良くわからないと言いますか。たとえば、元・セガ、元・カプコンという方はたくさんいて、だからそれらのメーカーがどういう風に作っているのかはなんとなく分かるんですけど・・・。

加藤氏:
 元・ファルコムの人が、“少ししかいないから”だよ(笑)。

近藤氏:
 「あまりファルコムの人はしゃべってくれない」と言われたことはあります(笑)。

──社員数がほとんどずっと変わらないし、いつも人材を募集しているのに、安定して高品質のゲームを作っているというのも謎といえば謎で……。御社がそうしている、あるいはできている“秘密”は何なのかな、と。

加藤氏:
 「儲かっていない」、「潰れそう」だとか、「ファルコムはまだ残っていたのか」なんて噂も流れていたりするようだけど(笑)。ウチは──売上はそうでもないけど──、利益率は日本一なんですよ。あえて言い返したくもないんですけどね。

──なかなか辛辣な噂ですね。

加藤氏:
 それに、赤字だったタイトルはいままでひとつもないんですよ。こじんまりとやっているからこそ、そういうことができる。

──こじんまり? と言いますと?

加藤氏:
 ハードが進化するにつれて、ある時期から規模を拡大していかないと“良いゲームが作れない時代”が来ましたよね。
 いまもそうかもしれないですけれど……、顕著な例では、スクウェアさんみたいにCGに力を入れてきた頃、ウチもそれと同じことをやろうとは思わなかった。僕は「(CGに力を入れるために“人員を増やす”というような)ゲーム作り以外で苦労をするのは、まっぴらごめん」みたいな気持ちがあるのでね(笑)。

 雇う人を増やすといろいろ大変だし──僕は基本的に人嫌いなんでね。だから、規模を拡大しなくても会社を続けていける方法はないかと考えて、思いついたのが「ストーリーを充実させたゲームを作ること」なんです。
 たとえば小説は、100人で作ってもロクなものにならないだろう、と(笑)。作家はひとりで十分なんですよ。この方針が上手くいけば、何千人が働くような大手の会社にも対抗できるじゃないですか。

 その結果できた妙なゲームが、たとえば『英雄伝説III 白き魔女』【※】。このゲームはやたらとセリフが多くて、文字数が多いんだよね。

※英雄伝説III 白き魔女
1994年に日本ファルコムより発売されたRPG『ドラゴンスレイヤー 英雄伝説』シリーズの3作目。ティラスイールという世界を舞台に、主人公の少年・ジュリオとヒロイン・クリスの冒険を描いている。本作と『英雄伝説IV 朱紅い雫』『英雄伝説V 海の檻歌』の3作は『英雄伝説』シリーズの2期にあたり、ガガーブトリロジーともよばれる。ガガーブとは3作の舞台にある巨大な台地の割れ目で、これによって世界が3つに分断されている。

近藤氏:
 キャラクター全員に名前がついていますからね。当時、こんなゲームはほかにはなかったんですよ。

加藤氏:
 物語重視の方向なら、物好きなすごいオタクが1人いればシナリオが作れる。そういう考えもあって、会社は物量勝負の拡大路線ではなくて、アイデア勝負のほうに行ったわけです。

──逆張りの発想なんですね。

加藤氏:
 「人を増やさないから会社が伸びない」と言われると、それも確かなんですけどね(笑)。人付き合いもそうだよね。僕は呼ばれないと行かないから。

子どものためにゲームを作っていた、ファルコム創立前夜

佐藤氏:
 その“逆張り”の日本ファルコム、そもそも加藤会長はどのような経緯で創業されたのでしょう? そこから紐解いていきたいですね。

加藤氏:
 僕は元々、自動車会社(日野自動車)のシステムエンジニアだったから、最初はゲームよりも機械の機能そのものに惹かれていたんですよ。
 だいたい昔のコンピュータは高額な割にディスプレイすら付いていないから。あってせいぜいキーボード。あとは、昔のSF映画に出てくるコンピュータのように、並んだ小さな電球が計算に合わせてチカチカ光る程度。僕がサラリーマンだった頃のコンピュータは、そういう機械だったわけ。

佐藤氏:
 だいぶ昔の話ですね。1970年代後半でしょうか。

加藤氏:
 それが、タイに駐在していたとき、ガラリと変わった。
 ある日、バンコクの展示会でApple II【※】を見て衝撃を受けたんです。それがパーソナルユースのコンピュータだったことに加えて、Apple IIは機能と値段がこれまでのコンピュータと激しく乖離していた。
 当時仕事で使っていたコンピュータなんてレンタル料に毎月5,000万円も払っていたんですよ。

※Apple II……1977年にアメリカで発売された世界初の個人向けコンピュータ。サウンド機能を標準で搭載していたほか、別売りの専用モニターに6〜15色のカラー表示が可能で、本体をカラーTVに接続することもできた。本体の機能を拡張することなくカラーが表示ができたことやコントローラー(ジョイスティック)を簡単に接続できたことなどから、ゲーム用途でも人気が爆発。のちに『ウィザードリィ』、『ウルティマ』をはじめ、数々の名作ゲームが生まれる土壌となった革命的なコンピュータ。画像は二台のフロッピードライブとモニタを載せたApple II
(画像はWikipediaより)

佐藤氏:
 かなり高額ですね。

加藤氏:
 でしょう? 「このレンタル料でApple IIが何台買えるんだ?」と思ったよ。下世話な話だけどさ(笑)。
 その体験から、「いままで何十年も扱ってきたコンピュータは何だったんだ?」と疑問を持ち始めたのがきっかけで、これからはパーソナルコンピュータの時代になるのかなと思ったよね。もっとも、その頃には“パーソナルコンピュータ”なんて言葉はなかったけれど。

佐藤氏:
 Apple IIはいろいろと画期的でしたよね。
 ここで御社の原点についてお聞きしたのは、「当時加藤さんは『ウィザードリィ』【※1】とか『ウルティマ』【※2】とか、そういうゲームにきっとハマっていたんだろうな」と予想したからなんですけれど、それ以前の話が出てくるとは(笑)。

加藤氏:
 しかもだいぶ前の話だね(笑)。まぁ、Apple IIとの衝撃の出会い以降、「パーソナルユースのコンピュータを扱う仕事をしたい」という気持ちは漠然とあったんですよ。
 でも、最初はそれで会社を独立しようとまでは思わなかった。趣味でコンピュータを始めてみたら、「これはゲームぐらいにしか役に立たないな」と思ってしまったので(笑)。実用的な表計算ソフトが出てくるずっと前だったからね。

佐藤氏:
 もう少しあとですね。

加藤氏:
 まぁ、結局12年間働いた会社を脱サラしたんだけどさ。ずっと一緒に仕事をやっていた市川(正和氏)という男がいるんですけれど、彼に、僕が会社を辞めるときに「企業の経営で一番難しいこととは?」と聞いたら、「資金繰りじゃない?」と。

 僕はそのやりとりをずっと覚えていたせいか、いままでお金で苦労したことはないですね。うちは無借金ですから。資金繰りで苦労しない方法は「無い金は使わない」。これに尽きるんだよね(笑)。
 ちなみに市川は、これがすごい人物で、近藤みたいに新卒で入社して、日野自動車【※】の会長にまでなった男なんですよ。

※日野自動車
トラックやバスの製造販売を手掛ける日本の自動車メーカー。1942年に総合車両メーカーだったヂーゼル自動車工業から特殊車両製造部門の日野製造所が分離独立し、日野重工業を設立。これが日野自動車の元になる。その後何度かの改称を経て、1959年に日野自動車工業株式会社となる。本社は現在も東京都日野市にある。

近藤氏:
 社長になったときに「お前は資金繰りで苦労しなくてもいいんだぞ」って言われたのをよく覚えています(笑)。

加藤氏:
 タイ・バンコク駐在から帰国した後にApple Ⅱを買って、拙いながらもゲームを作り始めたんですよね。コンピュータ雑誌の『アスキー』が創刊したての頃は、プログラムリストが誌面に載っていて。それを打ち込んで、自分で中身を改造して遊ぶ、といったことをしていましたね。
 ちょうどその頃5歳の我が子に遊ばせてみたり。すると子どもが「お父さん! 弾がすぐになくなっちゃうから、もっと出るようにして」とか、「こっちから敵がいっぱい来るから、あまり来ないようにして!」とか「もっと向こうまで行けるようにして!」とか、いろいろと注文してくる。そうなると、その晩は徹夜して直すわけで(笑)。

佐藤氏:
 優しいお父さん(笑)。

加藤氏:
 それで次の日に「どう?」って息子に聞いたりね(笑)。その繰り返しが、最初にゲームを作った思い出だよ。

佐藤氏:
 いつ頃、本格的にゲームを作ろうと?

加藤氏:
 独立したあとも、システムエンジニアの仕事はけっこういいお金になったんですよ。当時は技術者がとても少なかったから。

佐藤氏:
 そのままシステムエンジニアを続ける道もあった?

加藤氏:
 いや、でも“それじゃあ面白くない”と。仕事の内容はいままでと同じだからさ。
 で、働いて得た資金をもとに、念願だったApple Computerの販売代理店を開いたんですよ。ところが、高価なApple製品は1日1台売れるかどうかで、店番が暇になるわけです。
 暇すぎるので、試しにApple用のゲームを輸入して、それを通販で売り始めたわけ。その頃はゲームを売っているお店自体がほとんどなかったから。
 で、店が暇なときはゲームを勝手に取り出して、自分で遊び倒していたり(笑)。

佐藤氏:
 ひどい店員だ(笑)。

加藤氏:
 そのうち「こんなゲームだったら自分でも作れそう」と考えて、お店に出入りしていた人たちに「一緒に作らない?」と話を持ちかけたのが、本格的なゲーム作りのきっかけですね。
 たとえば『ドラゴンスレイヤー』【※】は、当時遊んでいたAppleのRPGっぽい内容ですよ。厳密にいうとRPGではないけれど、そういうゲームをかなり参考にしている。
 当時やっていて面白いと思ったゲームは「まず自分のホーム(家)があって、そこへ戻るとヒットポイントが回復する仕組み」だった。
 家の外に出て敵と戦って、また家に戻って回復する。そうなると、遠出するほどリスキーになるわけじゃない? それがけっこう面白くて、そういうゲームを作ろうと思ったんだな。

佐藤氏:
 当時はアドベンチャーゲームの中にもアクション要素があるものもあったし、RPGにもすでにいろいろな要素が含まれていましたよね。

加藤氏:
 日本ファルコムが最初に注目されたのは『デーモンズリング』【※】で、これは当時流行っていた紙芝居みたいなアドベンチャーゲームだしね。
 『ドラゴンスレイヤー』はオールマシン語で書いた初めてのゲームかな。その前まではベーシックで十分だったんで。特に早く処理しなくちゃいけないところとか、皆がビックリするようなギミックを使いたいときは、そこだけマシン語で書いていたな。

佐藤氏:
 開発には加藤さんご自身もだいぶ関わられた?

加藤氏:
 関わったといっても、あの頃はもう遊んでいるようなもので、みんなでワイワイ遊びながら作っていたよ。途中で「そろそろゲームセンターに行こうよ」とか、「このゲームを参考にしようぜ」みたいなね(笑)。
 たとえば……当時はセガさんの『ペンゴ』【※】が好きだったんですよ。あれって氷のブロックを飛ばせるでしょ? 「これ面白い、いま作っているゲームでもブロックを飛ばせるようにしようよ」とか。

※ペンゴ……1982年にセガ(現在のセガゲームス)より発売されたアーケード用のACT。ペンギンのペンゴを操り、敵のスノービーに氷のブロック(アイスキューブ)をぶつけて倒すことが目的。各ラウンドにはアイスキューブのほかに、3個を一例に並べるとボーナス点が入るダイヤモンドブロックもある。

佐藤氏:
 そのときの社員って何人ほどいらっしゃったのでしょう?

加藤氏:
 典型的な家族経営の店で、社員はいませんでしたね。うちの女房が経理をやっていて(笑)。あとは皆アルバイトです。プログラマーの木屋(善夫)くんもアルバイト。
 彼は自動車の整備士をやっていて、いつも仕事のあとに油で真っ黒になった手のままお店に来ていた。彼があまりに夢中になってやっているから、「うちの会社に入ったらさ、仕事で毎日できるぞ」とスカウトした(笑)。

佐藤氏:
 そうやってワイワイやりながら作っていた、と。

加藤氏:
 初代『ザナドゥ』【※】を作ったとき、僕が作った7面がボロクソに言われたけれど(笑)。

近藤氏:
 そうだったんですか(笑)。初めて聞きました。

加藤氏:
 『ザナドゥ』のコンセプトは「作っている人間が“遊べる”ゲームを作ろう」で、わりとユニークだと思っているんだよ。「遊びながら作っていれば、実力に関係なく、いずれ面白いものができるんじゃないか」という自分の考えがあって。

近藤氏:
 それは、僕も入社したての頃に言われました。そういうアドバイスが多かったです。それを具体的にどういうゲームシステムにするかを考えるのは、僕らの仕事ですね。

加藤氏:
 シナリオがしっかりあるゲームは、作っている側はなかなか楽しめないんだよね。『イース』【※】にはシナリオがあるから、中身を知っている“作る側”にとっては、楽しめない。

近藤氏:
 だから『イース』の新作を作りはじめるときは、「シナリオを考えないで遊べるものにしよう」といつも言うんです。それはたぶん、会長の影響ですね。「シナリオがなくても、アクション主体でゲームを進められて、それが楽しいならいいじゃないか」と。そこにストーリーがついていれば、より満足できると思いますし、良いアクションゲームになりそうだよね、という話をするんですよ。
 『イース』は“シナリオ先行”じゃなくて“アクションが中心”だから、「ゲームプレイを優先して考えていこう」、ということです。

当時のゲーム業界では珍しかったIP戦略

──加藤さんと佐藤さん、おふたりのお付き合いは相当長いようですが、そもそも最初に出会ったきっかけは何だったのでしょう。

佐藤氏:
 最初はもちろん『コンプティーク』【※】の取材だったと思います。
 初期の『コンプティーク』は、ファルコムタイトルを表紙にうたうことが多かった。編集会議は、表紙のロゴを入れたケント紙を壁に貼って、表紙にうたう文字をダーマトで入れていくの。「雑誌は表紙が命だ!」と思ってたから、表紙のコピーを考えることが、編集会議だった。そのとき、『ドラゴンスレイヤー』とか『ザナドゥ』とか書き込むだけで、売れるような気がしたもの。

加藤氏:
 あの頃から本当に佐藤さんにはお世話になって(笑)。読者の人気ランキングにウチのゲームを必ず入れてもらってさ。

佐藤氏:
 「入れてもらって」なんて言うと、ちょっと語弊があるでしょう(笑)。当時からファルコムのゲームは人気があったんですよね。

加藤氏:
 僕が覚えているのは、佐藤さんに相談を持ち掛けたことかな。僕は昔からキャラクターを育てたかったんですよ。たとえば『ハローキティ』みたいなのをね。その頃は『キティちゃん』もなかったですけど。

佐藤氏:
 キャラクタービジネスを意識したきっかけは?

加藤氏:
 最初はただ漠然と考えていたんだけれど、『ウルティマ』が出てきたときに「自分たちが作りたいのはこういうやつだ」とショックを受けたんですよね。それで、佐藤さんは昔おもちゃ業界の新聞記者をやっていたから、「おもちゃ業界でキャラクタービジネスに詳しい人を紹介してよ」と相談したんですよ。

佐藤氏:
 僕が紹介しましたっけ?

加藤氏:
 そうですよ。

佐藤氏:
 サンリオさんとか?

加藤氏:
 サンリオさんは佐藤さんの部下の方の紹介だったかもしれない。佐藤さんに紹介していただいたのは、お人形を作っているところで……。

佐藤氏:
 葉佐商品研究所ですね。葉佐(弘明)さんというキャラクターマーチャンダイジングの権威がいて、その方に会うために両国駅前のロッテリアで待ち合わせしたんだよね。思い出した(笑)。

──「ゲームのキャラクターをIPビジネスに役立てよう」という発想は、当時としては珍しいですよね。

佐藤氏:
 当時はほぼなかったね。だから最初からマーチャンダイジング──僕らの商売でいうと『ザナドゥ』などの「漫画」を、一緒にやらせてもらいました。

加藤氏:
 でも当時のRPGだと、キャラクターがなかなか立たないんですよ。自分がプレイヤーで主人公だから、どうにもならないんでね(笑)。

佐藤氏:
 でも、そう考えると日本ファルコムはゲーム関連グッズを作って販売した先例なのでは?

加藤氏:
 そうかもしれないですね。
 そのあと、サンリオさんのキャラクター担当の方にお会いできたんですよ。そのときにその方が言ったことがすごく印象的で、いままでそれを守ってきた。
 つまりね、「キャラクターを育てるコツは何ですか?」と聞いたら「やっている側が飽きないこと」だと。

 じつに簡単な言葉なんだけれど、それがえらく腑に落ちたんですよ。実際に長くやっていると、飽きちゃうものだよね、ゲームでも何でもそうだけど。

 その言葉を言われてからいろいろと見回してみると、確かにメジャーなキャラクターはそんな工夫をしながら育てているんだろうな、とわかったんです。一番わかりやすい『ミッキーマウス』だって90年。『ピーターラビット』だって100年以上やってるわけだけどさ(笑)。『キティちゃん』も40年以上は続いているでしょう?

佐藤氏:
 1975年から続いてますからね。

加藤氏:
 その方の言葉を座右の銘のようにして、いままでかたくなに守ってきたのは、僕の性格によるところもありますね。

佐藤氏:
 「キャラクターを育てるには、作る側が飽きないことが大切」という格言を得た加藤さんが、RPGを作り続けた理由とは?

加藤氏:
 自社のコンテンツを、いろいろな会社さんに“ライセンサー”として提供する──そんな他社さんのやり方を見て、いつしか「ウチでもそうしたい」と思うようになってはいたんですが、それよりも優先したかったのはRPGの制作だった、ということです。

 とはいえ、うちは当初からタイトルロゴもキャラクターとして考えていたんですよ。つまり、ロゴ単体でもウチがライセンサーとして他社さんに提供できるようなIPとしたかったのです。
 だから、『ザナドゥ』を作ったときはロゴに凝りました。単にゲームの名前じゃなくて、そういうデザインのエンブレムという感覚だったんです。
 当時はデザイナーがいなかったから外注で頼んだけれど、良いのができなくて結局休日に出社して自分で描いたんです(笑)。それをレタリングしてもらったんですよね。

『ザナドゥ』タイトル画面

佐藤氏:
 あのロゴは加藤さん直々のデザインだったんですね。

加藤氏:
 キャラクタービジネスにおいて重要なのはデザインですからね。

近藤氏:
 自分たちで自社タイトルをほかのプラットフォームに移植しようとすると、それよりは「新作を作れ」と加藤に言われましたね。
 新作は弊社のスタッフにしか作れないわけだから、そっちに注力したほうがいい、と。

 移植を僕らがやると、必ずと言っていいほど追加要素を入れちゃいますから、それについても当時けっこう怒られました(笑)。移植に1年かけると、そのぶん新作の開発も1年遅れますからね。
 タイトルを移植で水平展開する場合は、いろいろな会社さんと組むほうが「他所のノウハウを活かせる」というメリットがありますし、ね。

『ファザナドゥ』というタイトル名を聞いて「えっ!?」ってなった(笑)

佐藤氏:
 それまであったパソコンゲームのマーケットに、新たにゲーム専用機のマーケットができたときがビジネスの転機でしたよね。当時ファルコムさんは、ファミコン市場には参入しなかった。
 ファミコンのソフトを出すには、パソコンゲームとは違って“発売前にかなりの金額を用意しなければいけない”という事情がありました。加藤さんの資金繰りの考え方からすると、参入しないのも頷けます。

加藤氏:
 いまは「スマホのゲームを出さないとゲーム会社じゃない」と言われたりしますけれど(笑)、ファミコンが出てきた頃は「ファミコンをやろうかな」と思ったことはあったんですよね。

 その頃に同じく起業したヘンクさん【※】(元BPSを設立したヘンク・ブラウアー・ロジャース氏)はじめとした経営者同士が親しくて、情報交換をしたことがあったんです。そこで、資金的な面でもウチには向かないと思った。
 ファミコンのカセットはロム基板でしたから、製造までに3ヵ月くらいかかるんだよね。そうすると、ある程度見込み生産をしないといけない。1,000本しか作らなかったカセットは絶対に1,000本しか売れないわけですから。しかも、製造代金は全部先払いで、初期投資として5億円ぐらいは用意しないといけない。

 それに、利益率が非常に低かったからね。ロムはコストがかかるし、任天堂さんの取り分が多かったので……。パソコン用ゲームに使うフロッピーディスクの原価も当時はそれなりに高かったけれど、“高い”といってもたかが知れていますから。最初はメディアもカセットテープだったし(笑)。

※ヘンク・ブラウアー・ロジャース
1953年生まれのオランダ人ゲームクリエイター、企業家。1983年に日本で株式会社BPS(Bullet Proof Software)を設立し、パソコン用RPG『ザ・ブラックオニキス』を発売して大ヒットとなる。その後続編の『ザ・ファイアクリスタル』、パソコン用『テトリス』などを発売。1996年にはテトリスの作者、アレクセイ・パジトノフ氏とともにテトリス・ホールディングと子会社のテトリスカンパニーを設立。同社は『テトリス』の版権・ライセンスを管理している。

佐藤氏:
 確かにファミコンのビジネスは、そういう面ではリスクが高かったですね。

加藤氏:
 だから、「まだ参入しなくてもいいかな」と思った。「絶対参入しない!」というわけではなかったけれど、開発して1回失敗したら会社が傾くな、と。
 プラットフォーマーの都合で発売日を遅らされたりすることもあったので、ウチみたいな会社がもしそれをやられたら一発で潰れちゃうな、という。そういうのが怖かったんですよ。

 僕は慎重な人間なので、大きなリスクのあるものにはチャレンジしない。だから会社が大きく伸びないんですけどね(笑)。

佐藤氏:
 同時代だとハドソンさんは賭けに出て、それこそ売り上げが300〜400億まで一気にいっちゃったじゃないですか。そういった他社の動向を見ていて焦ることはなかった? 「時代に乗り遅れるかもしれない」というような。

加藤氏:
 「大きな賭けに出たい!」と思うほど焦った記憶はないです。彼らには彼らのやり方がありますから。
 といっても、負け惜しみみたいなものも何パーセントかは入ってるかもしれないけれど、そこでコケたらカッコ悪い(笑)。

佐藤氏:
 そんな中、1987年にハドソンさんから『ファザナドゥ』【※】が出ていますよね。

※ファザナドゥ……ファミコン用として1987年に発売されたアクションRPG。世界樹に隕石が落ちたことをきっかけにモンスターが跋扈するようになった世界で、平和を取り戻すべく戦う主人公の活躍を描く。パソコン用の『ザナドゥ』を原作にしたゲームだが、ストーリーやゲームシステムは大きく異なり、アクション要素が強くなっている。

加藤氏:
 なぜああいう形になったかは、僕もよく覚えていないんですよ。なぜかというと、ウチはいつも“受け身”だから。こちらからは積極的に攻めていかないというか。「あなたが好き」と言ってきた人と付き合う、みたいな(笑)。
 それで、そのときはハドソンから創業者の工藤裕司さんの弟、浩さんがダブルの背広を着て来たんですよ。でっかい“木彫りの熊”を抱えてね。

佐藤氏:
 まさに北海道な手土産(笑)。

加藤氏:
 テーブルの上にその木彫りの熊をドーンと置いて、「実は『ザナドゥ』をやりたいんだけど」と。
 そのときはすでにお力のある会社だったから、そんな風に思ってくれるなんてありがたいなと思った。
 そのあとも有名なプロデューサーの方が来て、「ウチはね、オリジナリティゼロなんですよ」なんてことを言っちゃうんです(笑)。そういう面白い人たちが多かったよね、ハドソンさんは。

佐藤氏:
 同じくファミコンソフトとして、1987年にナムコさんから『ドラゴンスレイヤーⅣ ドラスレファミリー』【※】が発売されました。

加藤氏:
 あれもいろいろといきさつがあってね。『ザナドゥ』がヒットする前、僕がゲームを売り込みに行ったことがあったんですよ。「売り込みに行った」と言っても、いままで37年の歴史で4回ぐらいしかないんですけど。
 ある人からナムコを紹介されて、ナムコの担当者さんから「プレゼンに来てほしい」と言われたんです。で、ある冬の日に訪ねて行ったんですよ……って近藤は何回も聞かされてうんざりしてるだろ?(笑)。

近藤氏:
 初めてですよ。

加藤氏:
 初めて? あれは一生忘れられないかな。ナムコの本社が大田区の矢口渡にあった頃──大雪の中、駅から本社まで必死に雪をかきわけて行ったんですよ。
 で、さんざん待たされた挙句にプレゼンをしてみたら、彼の琴線には引っかからなかったようで、けんもほろろ。「悔しいなあ」と思いながら帰ったわけなんだけど、それから1年か半年ぐらいあと、その方から突然電話がかかってきたんです。

 その頃には『ザナドゥ』が大ヒットしていたから、それを知って「加藤さん、以前持ってきた『ザナドゥ』、あれウチでやりたいんだけど」と。「ええ!? もっと早く言ってくれればよかったのに。ハドソンさんに売っちゃったよ」なんて(笑)。

一同:
 (笑)。

加藤氏:
 ハドソンさんが『ザナドゥ』をやることになったんだけれど、あの頃はタイトルの商標登録についてよくわかっていなくてね。当時そんなことに気を配っている会社は、大手以外あまりなかったんだよ。
 で、契約してからハドソンさんが商標を調べたら、関西の方にザナックスとかいう会社があって、「その商標が登録されていたから、変えることに決めた」と。

 その頃は「ザナドゥ」という名前の映画やベストセラー本もあったんですけれど、ハドソンさんは商標を気にしはじめた頃で、“ファミコンのザナドゥ”だから『ファザナドゥ』に変えます、と言われて「何ですかそれ!?」みたいなね(笑)。
 まぁ、それはいいんだけど、中身がまったく変わっていた。そこそこ面白いゲームだったから、『ザナドゥ』の名前じゃなくても良かったんじゃないの? と、いまでも思いますけれどね。

佐藤氏:
 でも、けっこう売れたんでしょう?

加藤氏:
 売れましたねぇ。国内ではそれほどでもなかったけれど、任天堂さんが海外で売ってくれて、それが100万本近く売れたのかな。
 とはいえ、「任天堂販売、ハドソン開発」だから、ウチに入って来るお金は非常に少なかったけれどね。

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